催眠の歴史

催眠の歴史6


前に述べたように、同業者(医者)達の嫉妬や反感を買ってウイーンを追われたメスメルは、活路を求めてパリに移りました。これが大成功で、数ヵ月後には彼のもとにフランス全土から大勢の病人が押しかけてくるようになったのです。

パリの彼の治療室はたいそう立派なもので、いろいろと演出が凝らされていました。まず部屋の四方には大きな鏡が張りめぐらされ、金色に輝いていました。また、部屋全体が薄暗くなっていて、ステンドガラスでこしらえられた窓が神秘的な雰囲気をかもし出していたのです。

部屋の真ん中にはバケットと呼ばれる大きな桶がでーんと置かれています。その中には金属片や瓶、ガラス片などが並べられ、磁化された水が入っています。バケットからは金属の棒が放射線状に何本も出ていて、患者はその棒につかまってメスメルが現われるのを待つのです。

部屋の照明が消えると、隣りの部屋から楽団の演奏が聴こえてきます。そして、静かにドアが開き、いよいよメスメルの登場です。

メスメルはベルベッドのガウンや絹のマントといった華やかな衣装をまとってしずしずと現われます。まさにカリスマティックな大スターの登場です。

彼はゆっくりと部屋の中を歩き回り、ひとりひとりの患者の体に触れていきます。メスメルが触れた患者は突然けいれんを起こしたり、体が震えたり、大声を上げて叫んだりし、そのまま失神してしまいます。いったんひとりでもそうなると、連鎖反応で次から次へとみんな同じような反応を起こしていきます。

これは一種の集団ヒステリーなのですが、この状態から正気に戻ると多くの患者の病気が治っていたというのです。いつの間にか音楽が鳴り止み、部屋が明るくなった時には、メスメルの姿も見えなくなっています。患者達はしだいに目を覚まし、ふと気がついてみると「あら、不思議、病気が治っていた」ということになるわけです。

動物磁気によるメスメルの治療は想像を絶するくらいの大評判だったようで、治療を受けたくても受けられない人が続出しました。それで直接治療を受けられなくても、磁気が入っているという小さな桶を買いに人々が殺到したのです。

また、メスメルは宮殿への出入りを許され、かのマリー・アントワネットにもひいきにされたと言います。

しかし、こうした栄光も長くは続きませんでした。ウイーン時代と同じく同業者の反感を買い、ある医者などは患者づらをして治療を受け、メスメルの治療は全然効かなかった、インチキだなどと悪評判を広めたりしました。

そして、1784年ついにルイ16世がメスメルの治療の効果の真偽を調べるために動物磁気が存在するのかどうかをフランス王立科学アカデミーに調査するよう命令を下したのです。

アカデミーでは調査委員会を発足させましたが、その中にはベンジャミン・フランクリンや化学者のラボアジェなどの錚々たるメンバーが加わっていました。委員会は調査の結果、動物磁気なるものは存在しない、患者が起こすけいれんなどの現象は単に患者の想像によって起こるものに過ぎないと結論づけたのです。

これによってメスメルはフランスからも去らねばならなくなり、パリを離れてスイスに移りそこで晩年を過ごしたのです。そして、貧しい人たちの治療を無料で行ないました。

フランス政府からは認められなかったメスメルですが、国外では依然その評判は衰えることはありませんでした。たとえば、プロシア国王はメスメルを招聘しようとしました。これは実現しませんでしたが、プロシア国王は代わりに医者のウォルハルトに命じてメスメルのもとでメスメリズムを学ばせました。のちにウォルハルトはベルリン医学専門学校でメスメリズムを教えるかたわら病院で動物磁気による治療を行ないました。

また、ロシアやスウェーデンなどの政府もメスメルのもとへ医者を派遣してメスメリズムを習得させましたし、かつてメスメルを迫害した故国オーストリアの政府でさえも彼の治療法を学ばせるために医者を派遣したのです。そして、フランスでもメスメルの信奉者は数多く残っていました。

このようにメスメルがフランスを去ったあともメスメリズムはけっして衰えることはなく、その後の催眠研究の礎となっていくのです。

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